【首都高晴海線の未成道?】大都会の未成道の正体に迫る!〜新富町に眠る未成道の今と昔〜【#東京都市計画道路幹線街路補助線街路第153号線・#支線1・#首都高晴海線】【その2:未成道・もう一つのトンネルの正体編】

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大都会に眠る未成道

 本稿は中央区新富の未成道を紹介する一連の企画の二つ目の記事である。一つ前の投稿【その1:概要・現状紹介編】では未成道の概要と現在の様子について紹介した。続編となる本稿では【その2:未成道・もう一つのトンネルの正体編】として、未成道と多目的広場から延びるもう一つのトンネルの正体について紹介・考察してみることにする。

【その1:概要・現状紹介編】を振り返る

 前投稿では未成道全体を五つの区間に分けて現在の様子を紹介をした。ここでは大雑把にその現状紹介を振り返ることにする。未成道の所在は中央区築地1〜3丁目・6〜7丁目、および同区明石町付近。下記の航空写真において黄色で色付けした部分がその未成道である。

出典:Apple「マップ」を加工して作成

 この未成道は築地川および築地川南支川を埋立・干拓した跡地に建設されており、道路はかつての川底部分を走っている。中央区役所前の三吉橋を起点とする未成道は入船橋方面に進んだのちに現在の築地川公園多目的広場付近で急カーブする。その後道路は南下し続け築地本願寺裏手に位置する「門跡橋交差点」の南側に至るまで道路は建設されている。多目的広場以南の区間については未成道には蓋がなされており、その上には築地側公園や駐車場が広がっている。周辺には未成道トンネルの出入口と思われる構造物や換気口が存在している。築地川が埋め立てられる以前の航空写真とトンネル関連の構造物の位置関係は下記に示す通りだ。

出典:陸軍撮影の空中写真(1936年6月11日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵)を加工して作成
出典:Apple「マップ」を加工して作成

未成道の正体

 ここからはいよいよ未成道の正体に触れていきたい。端的に言えばこの未成道の正体は東京都市計画道路幹線街路補助線街路第153号線の一部およびその支線1号 (以下それぞれ補助153号と支線1)である。三吉橋から多目的広場に至るまでの区間は補助153号の、多目的広場から南西方面に延びるトンネルは支線1の未成道である。下記に示した航空写真のうち水色で示した部分が補助153号線に、黄色で示した部分が支線1にそれぞれ対応している。

出典:Apple「マップ」を加工して作成

 支線1というのはその名の通り「補助線街路第153号線」の支線として計画されたものであるが、そもそも支線とは何なのであろうか?
 簡単に言えば支線とは「本線から分かれた枝道」のことであり、東京都都市整備局によれば道路の支線は「交差する都市計画道路の交差部において①地形や道路網の形状などの条件により計画されている支線と、②幹線街路の機能を補完するために計画されている支線」の二つに分類することができるという。トンネル部分の正体である補助153号線の支線1は、都市整備局による分類では「②幹線街路の機能を補完するために計画されている支線」に該当すると考えられる。次節以降で詳しく紹介するが、補助153号線は明石町と佃島・晴海を結ぶ道路として計画されたものであるため、明石町から築地方面へと延びる当該支線は地形や道路条件により計画されたというよりも、補助153号線の機能を補うために計画されたという性格が強いように考えられる。

東京都市計画道路幹線街路補助線街路第153号線

 この補助線街路第153号線、一般的な名称は「東京都道473号新富晴海線」である。入船橋交差点を起点に(令和5年11月の中央区都市計画審議会で計画変更がなされるまでの起点は三吉橋付近)中央区新富と晴海を結ぶ全長約2.1kmの幹線道路である。通称は「佃大橋通り」で、1964年の東京オリンピック開催に際し、500mほど南方を走る晴海通りの混雑緩和を目的として整備が進められた。東京都都市整備局が令和2年2月に公表した「東京都市計画道路(幹線街路)の当初計画決定年月日及び告示番号の一覧(https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/madoguchi/keikaku_madoguchi/pdf/keikaku_04.pdf))を確認すると、補助153号の当初の計画決定は昭和35年(1960年)1月12日であり、建設省告示 第29号にてその計画決定が告示されていることが分かる。告示の全文を下記に引用した。

建設省告示 第二十九号

東京都市計画街路を次のように追加し、変更し及び廃止する。

その関係図書は、東京都庁に備え置いて縦覧に供する。

昭和三十五年一月十二日

(「次のよう」は省略)

建設大臣 村上勇

 現在、告示内で言及されている「関係図書」は東京都庁ではなく国立公文書館にて保管されている。実際の計画地図は下記の通りである。

入船橋交差点付近を拡大

 当初の計画案では補助153号の起点は入船橋交差点の東側(計画書では”明石町”と記載)となっている。つまり現在未成道となっている区間については当初の補助153号の整備計画案には盛り込まれていなかったということになる。補助153号は明石町を起点に南東方向に延び、隅田川に橋梁を設けて月島を経由したのち、最終的には晴海一丁目へ至る計画であった。東京都がオリンピック開催後の1965年に公表した『第18回オリンピック競技大会東京都報告書』によれば、この補助153号線は1964年の東京オリンピックで晴海五丁目が選手村として利用される予定であったことや、永代橋と勝鬨橋への交通集中を解消する目的から計画が進められたようだ。そのような背景から補助153号線には東京オリンピック開催時における交通渋滞の緩和効果が期待され、オリンピック関連事業(関連道路)として急ピッチで整備が進められた。
 当初の計画決定が行われた昭和35年(1960年)の翌年には、補助153号線の整備計画区間は延長される。起点が入船橋交差点から250mほど西へ移り、三吉橋付近(中央区役所前)に変更されている。中央区の施策や事業について記録した『中央区政年鑑』(昭和37年度版)を確認すると補助153号線について「昭和36年11月17日 新富町3丁目まで路線延長される」と記載がある。「新富町3丁目」は現在は使用されていない旧住所表示だが、おおよそ現住所表示の新富2丁目付近(三吉橋付近)に対応している。下記航空写真のうち水色で示した部分が補助153号線の当初の計画案。ピンク色で示した部分が昭和36年の延長分を、黄色で示した部分が現在のトンネル未成道でもある支線1の一部区間をそれぞれ示している。

出典:Apple「マップ」を加工して作成

 この路線延長に伴い、補助153号線は起点である三吉橋付近で首都高速都心環状線と接続する計画に変更されることになった。都心環状線との接続により、補助153号線による交通渋滞の解消効果にはより一層期待が強まったようだ。日本道路協会の雑誌『道路 : road engineering & management review』の1963年12月号に収録された東京都道路建設本部による「佃新橋について」には補助153号線の渋滞解消効果について下記のような記述がある。なお、引用中の「高速1号線」とは都心環状線のことである。

一方都心部の交通緩和のため首都高速道路公団施行の高速1号線が計画され実施されている。築地川を利用して一般平面交通を遮断して羽田方面へ高架構造で導いている高速1号線に補助153号線を結びつけることにより,銀座地区の混雑を避けようと考えた。すなわち(a)環状3号線を通過した江東地区の交通は勝関橋を経過して都心の銀座通り,昭和通り等に流入して交通混乱の主因をなしている。これを本路線の新設により築地川支川を利用して高速1号線に導入する。(b)東京港の施設である晴海,豊洲の埠頭および月島地区で発生する交通量を新路線に吸収して高速1号線に導入する。(c)大都市の道路事業施行上常に障害となる用地取得の困難性を考慮し,佃川の理立による用地取得の容易性をはかる。

 ここにきて三吉橋ー入船橋の未成道の正体が明らかになる。すなわち、この三吉橋ー入船橋の未成道は当初の補助153号線の計画決定後において、入船橋交差点から延びる補助153号線と首都高都心環状線を接続するために整備されたものである。現在、この三吉橋ー入船橋間の未成道は入船橋交差点に設けられた都心環状線の新富町出口に至るまでのランプとして一部が活用されているが、もともとの計画では都心環状線からの分岐線はそのまま入船橋下部を通り抜け、補助153号線に接続するはずであったのだ。
 三吉橋ー入船橋の未成道の正体が明らかになったところで、三吉橋下部における都心環状線と補助153号の延長部の接続形態について考えてみたい。現在、三吉橋付近に設けられている都心環状線の分岐構造は内回り・外回りともに新富町「出口」へ至るために「流出」するものだけであり、都心環状線へ「流入」する構造は存在しない。

出典:Apple「マップ」を加工して作成

 補助153号線を三吉橋下部まで延長した背景に、都心環状線と補助153号線の接続構想があったことを踏まえると、都心環状線から流出した交通を補助153号線に導入するだけでなく、補助153号線から銀座方面へ向かう交通を都心環状線に流入させることも必要に思える。三吉橋下部で補助153号を経由してきた都心向きの交通を都心環状線に流入させる構想は現実的だったのだろうか?

補助153号線からの交通は三吉橋下部でC1に流入できたのか?

 あまり知られていないことだが、実は首都高速にもパーキングエリアは存在する。大黒PAや辰巳PAは一部界隈においても人気のようだが、以前は都心環状線外回りにも「新富PA」と呼ばれる休憩スペースが設けられていた。PAと言っても売店やコンビニがあるわけはなく、簡易的なトイレが設置されていただけであり、そのトイレも2013年2月19日に閉鎖されたという記録が残っている。

新富PAに設置されていたトイレの様子。出典:2012年4月撮影のGoogle ストリートビューより。

 現在、トイレが設けられていたスペースは非常駐車帯として利用されているのだが、そもそもこのスペースは何のために設けられたものなのだろうか?

出典:Apple「マップ」を加工して作成

 1963年(昭和38年)6月に国土地理院が撮影した空中写真を確認すると、この時点で既に三吉橋付近のC1外回りの路肩には大きなスペースが確保されていることが分かる。

出典:国土地理院撮影の空中写真を加工して作成(1963年撮影)

 おそらく、この路肩のスペースは都心環状線の建設に際して築地川を埋立・干拓した時点から生じていたものなのだろうが、このスペースを利用して補助153号線からの交通を都心環状線外回りに流入させることはできなかったのだろうか?流入のイメージとしては、補助153号を都心方面に向かう交通が三吉橋下部に向かって川底部分を直進。その後橋脚付近で左に急カーブし、橋脚を潜ったのちに現在の非常駐車帯のスペースを合流車線として使って都心環状線外回りに合流、といった具合。

合流のイメージ

 三吉橋下部での急カーブはかなりRのきついものになりそうだが、現在の外回りから新富町出口に至る分岐線はこの接続イメージと同じような構造になっているため、補助153号線からの交通を三吉橋付近で都心環状線外回りに流入させることはできたのではないだろうか?とはいえ流石にカーブの角度や合流車線の距離・視界の問題で現実的ではないようにも思える…。
 実際、首都高と東京都が発表している都心環状線の更新事業案においては、現在の新富町出口は都心環状線への入口に変更される計画であり、都心環状線への流入部については現在の内回りに設けられた新富町出口への分岐線を新富町入口から外回りへの流入線に転用する案が示されている。下記地図中の茶色で示された部分が新富町入口から都心環状線外回りへの流入路線を示している。

出典:東京都, 首都高速道路株式会社. 東京都市計画道路 都市高速道路第1号線等の変更(素案). 高速- 首都高速都心環状線 新京橋連結路(地下)の新設 -.

東京都市計画道路幹線街路補助線街路第153号線 支線1号

 では当時の計画ではどのようにして補助153号線からの交通を都心環状線に流入させていたのだろうか?三吉橋下部での流入が現実的でないとなると別のポイントで都心環状線への流入を行う必要があるわけだが、この都心環状線への流入を目的として計画されたのが同支線の1号、つまるところ東京都市計画道路幹線街路補助線街路第153号線支線1号、というわけだ。そして前述したように、この支線1号こそ、築地川公園の地下に広がる未成道トンネルの正体なのである。ただし正確には「未成道トンネル=支線1号の道路」ではない。現在の多目的広場ー門跡橋交差点まで建設された未成道トンネルはあくまでも支線1の一部である。下記に引用した支線1の計画予定地の地図に示されているように、支線1は未成道トンネルの終点である門跡橋よりも南側まで延びる計画であった。その先で支線1は90度曲がり、采女(うねめ)橋付近で都心環状線と接続する計画であった。そのような構想から始まった支線1のうち、実際に道路として建設された区間(現在の多目的広場ー門跡橋)が、「作りかけ」の道路として現在に至るまで残っているのだ。正確にはこの未成道トンネルは支線1号の整備計画が事実上頓挫した後に建設されたものであるため、その文脈でも「未成道トンネル=支線1号の道路」ではないのだが、それについては【その3:計画頓挫とその後の土地利用編】を参照していただきたい。

出典:中央区政年鑑 昭和41年版に掲載の地図を加工して作成

 上記に引用した支線1の計画図を見て察しのついた読者の方もいるかもしれないが、この支線1は築地川とその支川が流れる土地を利用して整備される計画であった。下記には川が埋め立てられる以前の航空写真を引用した。支線1が川の跡地を利用して整備される計画であったことがよくわかる。

出典:国土地理院撮影の空中写真(1963年6月26日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵)を加工して作成

 『中央区政年鑑 昭和43年版』には補助153号線支線1について「この完成の暁には高速道路1号線との連絡等により、なお一層の交通緩和が期待される」と記述が残されている。また采女橋付近で支線1号と都心環状線が接続される構想であったことは下記に示す昭和38年出版の『首都高速道路公団法規集 第2編-第5編』からも確認できる。

出典:首都高速道路公団法規集 第2編-第5編より

 支線1の当初の計画を確認するべく『中央区政年鑑 昭和52年度版』を確認すると、この補助153号線支線1は昭和36年に都市計画決定されたという記載がある。国立印刷局の提供する官報情報検索サービスを利用して当該支線の計画決定に関する告示を検索すると、最も古いもので昭和41年度の「建設省告示 第1712号」がヒットする。告示内容は下記に引用する通りだ。

告示
建設省告示
第1712号
東京都市計画街路事業(補助線第153号線支線一号)及びその執行年度割を次のように決定する。
その関係図書は、東京都庁に備え置いて縦覧に供する。
昭和41年6月1日
建設大臣瀬戸山三男
(「次のよう」は省略)

 この告示に記載のある関係図書の調査・閲覧を試みたが、国立公文書館をはじめとした公文書保存機関や東京都都市整備局、国土交通省図書館では所蔵が確認できなかった。告示文の内容が計画の「変更」ではなく「決定」である点などから判断して、この昭和41年6月の告示が補助153号線支線1の当初の計画決定時の告示であると推測できるが、昭和52年度版の中央区政年鑑には当該支線は昭和36年に都市計画決定されたと記述があり、両者の間には決定から告示までに5年間のズレが生じている。
 これについては、旧都市計画法の条文を確認することで5年間のズレの理由に近づくことができた。昭和44年から施行されている現行の都市計画法では周辺住民からの意見公募といった市民による計画決定手続きへの参加が重要視されており、それらを実現するための手段の一つとして告示による情報公開が義務化されている。対して旧都市計画法下ではそのような取り組みは限定的であり、大正8年(1919年)の制定から昭和43年の法改正に至るまで都市計画決定の告示は義務化されていなかった。告示の義務化に関する条文が追加されたのは昭和43年のことだが、同年6月には現行の都市計画法(新都市計画法)が公布され、翌年6月に施行された。
 昭和43年施行の旧都市計画法に追加された告示義務に関する条文は下記のとおりである。

旧都市計画法 第三条第二項
都市計画、都市計画事業及毎年度執行スベキ都市計画事業ニ付テハ政令ノ定ムル所ニ依リ主務大臣之ヲ告示シ行政庁ヲシテ関係図書ヲ縦覧ニ供セシムベシ

 上に引用した告示の義務化に関する条文が追加されたのが昭和43年であることを踏まえると、支線1号の計画決定から告示までの5年間のズレの謎が解決する。すなわち、支線1の都市計画決定がなされた昭和36年時点、そして計画決定当初のものと思われる告示がなされた昭和41年時点、どちらの時点でも都市計画決定に伴う告示は義務化されていなかった。それゆえに計画決定に伴う告示が迅速には行われず、決定から告示までに5年間のズレが生じてしまったのではないだろうか。(もちろん、5年の間に計画の見直しや修正が行われていたために告示が遅れた可能性も十分あり得るが)

 話が少々脱線してしまった。繰り返して来た通り、この支線1号は補助153号線を経由してきた月島方面からの交通を采女橋付近で都心環状線に流入することを目的に計画された。支線1の役割はそれだけであったのだろうか?『中央区政年鑑 昭和43年版』には補助153号線支線1について「この完成の暁には高速道路1号線との連絡等により、なお一層の交通緩和が期待される」と記述が残されている。やはり、支線1の整備計画のメインテーマは補助153号線を経由してきた月島方面からの交通を都心環状線へ流入することであったのだろう。しかしながら整備計画が立てられたのは築地市場移転の何十年も前のことである。そのことを踏まえると、築地市場のすぐ裏手を通過する支線1には都心環状線からの流出地点である三吉橋と築地市場を直接結ぶバイパス路線としての役割も想定されていたように考えられないだろうか?これについてはバイパス路線としての役割が支線1に期待されていたのかどうかを示す資料にたどり着くことができなかったため断言することは避けるが、都心環状線から築地市場までを他の交通と交差することなく直通で結ぶことができることには大きなメリットがあるようにも思える。

出典:中央区政年鑑 昭和41年版に掲載の地図を加工して作成

 采女橋付近で計画されていた支線1から都心環状線への流入が、外回りと内回りのどちらで計画されていたのかについては、明確な計画を示した資料を発見することができなかったが、これについては外回りへの流入が現実的であったように思える。支線による都心環状線への流入計画が持ち上がった時点では、既に采女橋付近には一般道から都心環状線外回りへ入る銀座入口が整備されており、これを廃止して転用すれば支線から都心環状線外回りへの流入はスペース的には実現可能であったように思える。一方、内回りへの流入についてはこの区間はS字カーブになっていることに加え、本線への合流車線を作るようなスペースはほとんどない。ゆえに支線からの流入は外回りのみに限定されることが現実的だったのではないだろうか。

現在の銀座入口の様子① (筆者撮影)
現在の銀座入口の様子② (筆者撮影)

もう一つのトンネルの正体

 ここまでは未成道の正体である補助153号線とその支線1の計画について紹介してきた。本節では前回の投稿【その1:概要・現状紹介編】で詳しく触れることのできなかった現在の築地川公園多目的広場から延びるもう一つのトンネルについて言及することにする。下記には多目的広場の様子を示したが、黄色で囲んだ部分がそのトンネル開口部だ。写真右奥に見えるのは南西方向に延びるトンネルの開口部、すなわち支線1の未成道トンネルの開口部である。

多目的広場の現在の様子 (筆者撮影)
多目的広場から延びるもう一つのトンネルの開口部 (筆者撮影)

 現在、この黄色で囲ったトンネル開口部は鉄板によって蓋がなされており、その内部の様子を覗くことはできない。しかしながら前回の投稿でも紹介したように一昔前まではこの鉄板は設置されておらず、トンネル内部を直接確認することができたようだ。開口部に蓋がなされていなかった当時の様子を記録したツイートと動画を下記に引用する。

 蓋がなされていなかった時期の写真や動画を確認すると、トンネル開口部は大きく三つに分かれていたことがわかる。

トンネル開口部は大きく三つに分かれていたようだ。 (筆者撮影)

 開口部が三つに分かれているということはトンネルの行きつく先が異なっているということなのだろうか?トンネルの内部構造が分かればその謎の答えに近づくことができそうだが、このトンネルの内部構造を示す資料はなかなか見当たらなかった。そんな中たどりついたのが下記に引用したツイートだ。

 このツイートにはトンネルの補強工事が行われた際の路上工事看板を撮影した写真が添付されている。筆者にとっては非常にラッキーなことに、路上工事看板にはトンネルの平面図が掲載されているようだ。平面図を参考にトンネルの内部構造を単純化して表したものを下記に示す。説明に際し、三つに分かれたトンネルの開口部を北寄りのものから順に①②③とした。

路上工事看板の平面図を参考に作成したトンネルの内部構造 (筆者作成)

 トンネル平面図を確認すると、開口部①と開口部②から延びる二つのトンネルは、数十メートル先で合流していることがわかる。そして何より、トンネルは意外にも遠くまでは延びておらず、行き止まりになっているようだ。はたしてこのトンネルはどのような計画に基づいて整備されたものなのだろうか?このトンネルについて言及がある公的資料はほとんど見当たらないが、昭和43年(1968年)〜昭和50年(1975年)ごろの『中央区政年鑑』にはこのトンネルのことを指していると思われる記述が確認できる。下記には昭和43年版の『中央区政年鑑』の記述を引用した。

= 都市計画街路補助 153号線同支線1号 =
首都東京の急速な発展にともない急増する自動車交通に対して、街路計画が立ちおくれており、特に都市交通のいちじるしい混乱状態を生じてきた。これらの打開策の一部として、補助153号線同支線1号が計画され、すでに個大橋の完成により江東および月島地区方面への交通緩和に重要な役目を果たした。ひきつづき築地川三吉橋下流端から入船橋下流端まではすでに工事が完了し、現在築地川南支川備前橋下流端までと 佃大橋に通ずる隧道工事 ならびに明石ポンプ場の工事が施行中である。なお佃大橋から春海橋間と備前橋から北門橋までの基本計画が検討されており、この完成の暁には高速道路1号線との連絡等により、なお一層の交通緩和が期待される。

 注目したいのは太字の斜体で示した「佃大橋に通ずる隧道工事」という部分だ。国土交通省の解説によれば「隧道」とはトンネルのことである。上記に引用した記述を読み解くに、このトンネルはかつての川底部分に建設された道路と地上部分を走る道路を接続するために整備されたもののようだ。すなわち、このトンネルの正体は、築地川の川底部分に建設された補助153号線の延長区間およびその支線1と、地上部分に建設された補助153号線(佃大橋通り)の接続トンネル、ということになる。
 この接続トンネルに関する記述は昭和43年版以降、昭和50年版の『中央区政年鑑』に至るまで確認できる。面白いことに記述の内容は少しずつ変化している。それぞれの記述は下記に引用する通りだ。

昭和43年版

(前略) 佃大橋に通ずる隧道工事 (中略) が施工中である。(後略)

昭和44年版 & 昭和45年版

(前略) 佃大橋に通ずる開口部 (中略) については基本計画が検討され、昭和45年度以降の施行予定で (後略)

昭和46年版

(前略) 佃大橋に通ずる開口部 (中略) については基本計画が検討され (後略)

昭和47年版

(前略) 佃大橋に通ずる開口部 (中略) については基本計画が検討され、昭和46年度に用地測量も完了している。 (後略)

昭和48年版

(前略) 佃大橋に通ずる開口部 (中略) については基本計画が検討され、昭和46年度に用地測量も完了し、現在建設計画を進めている。(後略)

昭和50年版

(前略) 佃大橋に通じる開口部 (中略) については現在、本格的計画が検討されている。(後略)

 引用した記述の内容を整理する。まず昭和43年版の記述から、川底部分と地上部分を接続するトンネルそのものについては工事が施工中であることが読み取れる。昭和43年以降、トンネル工事が完了したという旨の記述は登場しないが「施工中である」という事実は、トンネルが何かしらの構造物として建設されたと読み替えることができる。
 昭和44年版以降の記述からは、佃大橋に通ずる開口部については計画が検討されたものの、工事は施行されなかったことが分かる。ここでいう「佃大橋に通ずる開口部」というのは、現在の多目的広場の鉄板で覆われたトンネル開口部のことではなく、地上を走る佃大橋通りへの開口部のことである。
 昭和50年版の記述を最後に、当該トンネルについての言及が政年鑑に登場することは筆者の確認した限りではなかった。これを踏まえれば、川底部分と地上部分(佃大橋通り)をこのトンネルで接続するという構想は昭和50年ごろに事実上頓挫したと推測できる。引用した『中央区政年鑑』の記述を総合的に踏まえると、トンネルそのものと多目的広場の側壁に設けられた川底側の開口部は建設されたものの、地上を走る佃大橋通りへ至るトンネルの開口部が建設されることはなく、トンネルが行き止まりになっているという現在の状況には納得がいく。

 川底側のトンネル開口部はなぜ三つに分かれているのだろうか?前述したように、路上工事看板のトンネル平面図によれば、北寄りの二つの開口部から延びるトンネルは多目的広場の少し先で合流し、一つのトンネルになっている。多目的広場から延びるこのトンネルが川底部分と地上部分を接続するために建設された道路であることを踏まえると、トンネルは(1)川底部分→地上部分の接続トンネルと、(2)地上部分→川底部分の二つが必要になると考えられる。日本が左側通行であることを前提にすると、地上部分と川底部分のトンネルによる接続について、下記に示すようなイメージが立てられないだろうか。下記図中では開口部①と②が(1)川底部分→地上部分の接続を、開口部③が地上部分→川底部分の接続をそれぞれになっている。

川底部分と地上部分の接続イメージ (筆者作成)

 ここからは各トンネル開口部が川底部分の交通とどのように接続される構想だったのか考察してみたい。ここからの考察は筆者による勝手なものであることに注意していただきたい。

 まずは開口部①と②について。前述した通り、トンネルの内部構造や左側通行の原則を踏まえて考えると、開口部①と②から延びるトンネルは川底部分→地上部分への接続を担うものとして計画されていたはずだ。ではなぜ行き先は同じなのに入口が二つに分かれているのだろうか?おそらくこれは開口部に向かってくる交通が二つに分かれていたからだろう。まず一つは補助153号の延長部分を経由してくる三吉橋・入船橋方面からの交通、そしてもう一つは支線1を経由してくる築地市場方面からの交通。この二つの異なる方面からの交通をトンネルに導入する必要があったため、行き先が同じトンネルであっても開口部を二つ用意する必要があったのではないだろうか?
 二つの開口部と二つの交通の組み合わせについては、開口部の角度や位置から推測するに、補助153号の延長部を経由してきた三吉橋・入船橋方面からの交通は開口部①に、支線1を経由してきた築地市場方面からの交通は開口部②にそれぞれ接続するというのが妥当であるように思える。

 開口部③についてはどうだろうか?この開口部から延びるトンネルは開口部①と②から延びるものとは合流していないため、上記までに検討した交通とは逆方向の交通を想定しているはずだ。すなわち前述したように、この開口部③から延びるトンネルは地上部分→川底部分への接続を担うものとして計画されたはずだ。では開口部③から川底部分に出た交通はどの方面に進む計画だったのだろうか?可能性として考えられるのは[1]補助153号の延長部分を経由して三吉橋・入船橋方面、と[2]支線1を経由して采女橋・築地市場方面、の二つだ。しかしここで支線1の当初の整備目的を思い出してほしい。それは「補助153号を経由してきた月島方面からの交通を采女橋で都心環状線に流入させること」である。これに立ち返れば、開口部③から川底部分に出た交通の行き先が、[2]支線1を経由して采女橋・築地市場方面、であることが自ずと明らかになる。
 ここまでのトンネル・開口部の接続形態に関する考察を図に起こすと下記のようになる。

 結局建設されることのなかった地上部分(佃大橋通り)へのトンネル開口部については、どのような計画がなされていたのだろうか?実際に検討されていた計画の中身を知ることはできなかったが、ここまでの考察を総合すると、下記に示すようなイメージでの接続が考えられないだろうか?

 『中央区政年鑑』には、この地上部分へのトンネル開口部は「佃大橋通じる開口部」と表現されているため、トンネル開口部は佃大橋へ繋がるアプローチと側道が分岐する佃大橋西交差点よりも西側に設置される計画だったことは間違いないだろう。現在の佃大橋西交差点付近の様子は下記に示した通りだ。

佃大橋西交差点の西側の様子 (筆者撮影)
佃大橋西交差点の東側(佃大橋側)の様子 (筆者撮影)
佃大橋西交差点の西側の様子(歩道橋の上より) (筆者撮影)

 【その2:未成道・もう一つのトンネルの正体編】はここまで。次回の【その3:計画頓挫とその後の土地利用編】では、補助153号線と支線1の道路整備計画と、その後の計画地の土地利用について解説・紹介したい。

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