新富町の未成道
本稿は中央区新富の未成道を紹介する一連の企画の三つ目の記事である。【その1:概要・現状紹介編】では未成道の概要と現在の様子について紹介。【その2:未成道・もう一つのトンネルの正体編】では、未成道と多目的広場から延びるトンネルの正体について紹介・考察した。これらの続編となる本稿では【その3:計画頓挫とその後の土地利用編】として、補助153号線と支線1の道路整備計画の頓挫とその後の土地利用について紹介する。三本にわたって解説・紹介してきた新富町の未成道に関する記事は本稿が最後のものとなる。
【その2:未成道・もう一つのトンネルの正体編】を振り返る
ここでは前投稿【その2:未成道・もう一つのトンネルの正体編】の内容を振り返りたい。シリーズ第1弾の【その1:概要・現状紹介編】については前投稿の冒頭部分で概略を示しているので、必要であればそちらを参照してほしい。
前回の投稿ではこの未成道の正体が「東京都市計画道路幹線街路補助線街路第153号線」と、「東京都市計画道路幹線街路補助線街路第153号線支線1号」 (以下それぞれ補助153号と支線1)であることを紹介し、それぞれの道路計画について考察を行った。

上記に示した地図のうち、水色で示した部分が当初の明石町を起点とした補助153号線の計画地を、ピンク色で示した部分が延長された153号線の計画地を、黄色で示した部分が支線1の計画地をそれぞれ表している。実際に道路建設が行われたのはピンク色と黄色で示した部分であり、これらの「作りかけ」の道路をここでは「未成道」と呼んでいる。
なお詳しくは【その1:概要・現状紹介編】で紹介したが、この未成道は築地川とその支川を埋立・干拓した跡地、すなわちかつての川底部分に建設された道路である。ピンク色で示した153号線の延長部分である三吉橋ー入船橋間については未成道には蓋がなされていないが、黄色で示した支線1にあたる区間については未成道には蓋がなされており、未成道はトンネルとして残されている。トンネルの上には築地川公園や公営の駐車場・生鮮市場が広がっている。


補助153号線整備計画の頓挫
当たり前の話になるが、この道路が「作りかけ」の「未成道」であるということは、この道路は何らかの理由で工事が中断されたということだ。なぜ補助153号線と支線1の整備計画は頓挫してしまったのだろうか?公的にその理由が発表されているわけではないため、計画が頓挫した理由についての断言は避けたいが、建設局関係者や周辺住民への聞き込みから計画頓挫の背景を垣間見ることができた。この節では補助153号線の、次節では支線1号の計画頓挫の背景についてそれぞれ検討してみたい。
まずは補助153号線の延長区間である三吉橋ー入船橋間で整備計画が頓挫した背景を探ってみたいのだが、そもそもこの区間については計画が「頓挫した」と言えるのだろうか?道路建設が完成しているわけではないため「未成道」であることに変わりはないのだが、この区間には現在、都心環状線から流出した交通を地上部分へ接続するスロープが建設されており、埋め立てた土地は有効的に活用されている。



埋立・干拓を行った土地が、当初の目的と全く別の用途で活用されているのであればそれは「計画頓挫」と言えるのだろうが、現在のこの三吉橋ー入船橋間の用地の活用は部分的に当初の目的に合致していると言える。
補助153号線の延長部分である三吉橋ー入船橋間の本来の整備目的は「都心環状線から流出した川底部分を走る交通を、地上部分に建設された補助153号線に導入すること」である。当初の計画では地上部分との接続は現在の多目的広場付近に建設されたトンネルを介して行われるはずであったため、現在のような入船橋交差点に直接接続する形態は当初の計画案とは異なっているものの、本質的な整備目的は達成されていると言って差し支えないように思える。


ではなぜ、補助153号線の延長区間である三吉橋ー入船橋間の道路建設は完遂されることなく現在に至るのだろうか?筆者が調査した限り、建設が完了していない理由を明確に示す公的資料は見つけることができなかったが、この先の支線1号や佃大橋方面に延びるトンネル建設計画がうまく進まなかったことを踏まえると、三吉橋ー入船橋間の道路建設工事が完了しなかったのは、この区間そのものの問題というよりも、これより先の道路建設区間において計画が想定通り進まなかったから、という側面が大きいように思える。事実、この三吉橋ー入船橋間は補助153号線と支線1号の計画用地の中でも初期の段階で埋め立てが完了した区間であるため、これより先の計画予定地における整備計画の難航が、この区間を「作りかけ」にした所以であると考えていいだろう。
三吉橋ー入船橋間の水面埋立が完了したのは『中央区政年鑑』の記録によると昭和43年(1968年)。埋立はその先の入船橋ー備前橋の区間についてもほぼ同時期に実施され、昭和47年(1972年)には三吉橋から備前橋までの区間で水面埋立が完了した。

上記に引用したのは昭和50年(1975年)撮影の航空写真であるが、三吉橋ー備前橋までの区間の土地利用に注目すると、この時点では三吉橋ー入船橋間は都心環状線の新富町出口までのランプに、入船橋ー備前橋間は駐車場に活用されていることがわかる。
航空写真をよく見ると、三吉橋ー入船橋間に建設された新富町出口に至るまでの道路は楕円形のような独特な形をしているように見える。これは当時の新富町出口が現在とは異なる場所に設置されていたことに由来する。
現在の新富町出口ができたのは1980年ごろのことであり、それ以前の新富町出口は現在の三吉橋に設けられていた。現在でも残っている三吉橋から川底部分へ延びるスロープの正体は、当時活用されていた新富町出口に至るためのランプである。三吉橋下部で都心環状線から流出する交通の進行方向は入船橋方面であるため、三吉橋に設けられた出口に向かうには、川底部分でUターンする必要がある。川底部分でのUターンを実現するために作られたため、当時の航空写真には三吉橋ー入船橋間に楕円形のような形をした道路が映り込んでいる。






三吉橋に設けられた川底部分へ至るスロープは北側のものと南側のものの二つある。航空写真を見る限り、南側のスロープが新富町出口として使われていたようだ。現在でも南側スロープの出口付近には塗装が剥げた車両進入禁止の標識が残されている。このスロープが首都高の出口として活用されていたことの証拠と言えるだろう。
もう片方の橋の北側に設置されたスロープについては、正直どのような目的から整備されたものなのかはっきりしない。周辺住民の方からは、一時は入船橋と備前橋の間に整備された駐車場への出入り口として北側のスロープが使われていたと話を聞くことができたが、この北側のスロープの用途についてはよくわからない点が多い。

この三吉橋ー入船橋の区間については他にも面白い歴史がある。というのもこの区間、最初の水面の埋立・干拓以降、一度地面(川底部分)が掘り起こされているのだ。実はこの三吉橋ー入船橋間の地下には地下鉄有楽町線の新富町駅が埋まっている。有楽町線は昭和49年(1974年)に池袋ー銀座一丁目間が開通。その後に新富町駅まで延伸したのは昭和55年(1980年)のことである。埋立工事の完了が昭和43年(1968年)であることを踏まえると、新富町駅は三吉橋ー入船橋間の埋立完了後にその地下に建設されたものである。しかし新富町駅の建設工事が始まった際には、すでにこの区間は首都高都心環状線の新富町出口として活用されていたため、駅の建設工事は簡単なものではなかったそうだ。記録によれば駅の建設工事は新富町出口の重要性を鑑み、長期間にわたって出口を閉鎖することなく工事は完了したという。詳しい工事の記録は下記に示す報告書に記載があるが、Uターン構造の位置を工事の施工場所に合わせて移動させることで新富町出口をなるべく封鎖することなく工事を完了させたという。権利の関係で画像を直接掲載することはできないが、当時の新富町駅建設工事の様子を記録した写真が中央区立図書館のwebギャラリーに収蔵されている。関心のある方はぜひURL先の画像を確認していただきたい。
支線1号整備計画の頓挫
ここからは支線1号、すなわち現在の多目的広場から采女橋に至るまでの区間における計画頓挫に話題を移したい。まずこの区間の中でも多目的広場ー備前橋までの区間については前節でも言及したが埋立・干拓はかなり初期の段階で完了している。『中央区政年鑑』の記録によれば、入船橋ー備前橋の区間は三吉橋ー入船橋間とほぼ同時期に埋立が実施され、昭和47年(1972年)に水面埋立が完了した。水面の埋立が完了した後、多目的広場ー備前橋の区間には川底部分に駐車場が整備された。駐車場としての土地利用はこれより先の計画地における埋立工事が完了するまでの暫定的なものだったのだろう。駐車場が整備された時点では備前橋以南の計画地は埋め立てられていなかった。
『中央区政年鑑』に備前橋以南の埋立工事が実施されていない区間における「計画変更」が匂わされている記述が最初に登場するのは昭和50年(1975年)度版だ。
(5) 築地川東支川
都市計画街路補助153号線同支線1号線は, 現計画を変更し,北門橋から市場橋間の水面はその部分(面積約5,140平方メートル)を道路計画より除外する予定であるので, 当区としては計画より除外された水面の埋立権を獲得の上, 公園等, 公共施設を建設すべく都と接渉中である。
この記述によれば、昭和50年の時点で支線1の整備計画は変更されており、北門橋ー市場橋間の水面は支線1号の整備計画地から除外されることになる計画だったようだ。橋の位置関係については下記の航空写真に示した。

二年後の昭和52年(1977年)には計画から除外された北門橋ー市場橋間について下記に引用するような言及がなされている。
(5) 築地川東支川
東京都市計画道路補助街路第153号線, 同支線1号の都市計画変更決定に伴い,昭和52年6月3日付をもって、築地川東支川のうち北門橋から市場橋までの公有水面(面積約5,400平方メートル)の埋立免許を受け,昭和52年度末を目途に現在埋立工事中である。
なお,埋立後は公園及び区民施設等を建設する計画である。
二年間の間で北門橋ー市場橋間の水面利用については計画が順調に前進したようだ。また昭和52年版の記述には補助153号線と支線1の都市計画が正式に変更されたとある。この計画変更については翌年の昭和53年(1978年)に告示されたようだ。告示文は下記に引用する通りだ。
告示
建設省告示
第638号
都市計画法(昭和43年法律第百号)第63条第1項の規定により、昭和41年建設省告示第1712号東京都市計画道路事業の事業計画の変更を認可したので、同条第2項の規定において準用する同法第62条第1項の規定に基づき、次のとおり告示する。
昭和53年3月31日
建設大臣櫻内義雄
一 施行者の名称 東京都
二 都市計画事業の種類及び名称 東京都市計画道路事業補助線街路第153号線支線一号及び幹線街路放射第31号線
三 事業施行期間 自昭和41年6月1日至昭和57年3月31日
四 事業地収用の部分 昭和50年建設省告示第400号の事業地のうち築地四丁目及び築地五丁目地内において事業地を変更する
1978年3月31日
昭和53年号外第23号 25頁
告示文の「四 事業地収容の部分」を確認すると、築地四丁目と五丁目内で事業地が変更されていることがわかる。北門橋ー市場橋が位置するのは築地四、五丁目であるため、昭和52年版の「都市計画変更決定」の告示は上記に引用した昭和53年(1978年)3月31日のものであると思われる。
この計画変更の背景については同書の中で「 (前略) なお, 備前橋下流から北門橋間についての道路建設計画は, その後の交通事情の変化に対応するとともに、有効な土地利用を図るため一部利用形態を変更することになり, (後略) 」と説明がなされている。
昭和52年(1977年)8月からスタートした北門橋ー市場橋間の埋立工事は昭和53年(1978年)3月に完了し、その翌年(昭和54年4月)には埋立地に市場橋公園が整備され、一般開放された。この市場橋公園は現在に至るまで残っている。昭和54年(1979年)11月撮影の航空写真を下記に引用した。

この時点では備前橋ー市場橋間については未だ埋立・干拓が行われていない。当初の計画では支線1号は采女橋付近で都心環状線と接続する計画だったわけだが、(詳しくは【その2:未成道・もう一つのトンネルの正体編】を参照)市場橋ー北門橋間の埋立とその土地における公共施設建設の結果、入船橋付近(現在の築地川公園多目的広場)を起点とした支線1号を、終点である采女橋まで整備することは事実上不可能になったわけである。
そのような文脈から考えれば、支線1号整備計画の頓挫の始まりは「北門橋ー市場橋間の道路整備以外を目的とした埋立工事の実施」であると言えるだろう。
残念なことにこの事実上の計画頓挫以降、支線1号の整備計画については『中央区政年鑑』の中で言及されなくなっていく。最後の記述となる昭和56年(1980年)のものを下記に引用した。
都市計画道路補助線街路第153号線 同支線1号
(前略)
なお, 備前橋下流から北門橋間についての道路建設計画はその後の交通事情の変化に対応するとともに, 有効な土地利用を図るため一部利用形態を変更することとなり, 昭和51年10月都市計画の変更が決定された。
現在備前橋下流端から市場橋上流端間及び中央区佃三丁目・月島二丁目(清澄通り)から朝潮運河間の埋立てについては関係団体と折働中である。
昭和56年(1980年)の時点で支線1号の整備計画にどの程度現実味がなくなったのかは正直なところはっきりしない。備前橋ー市場橋間の埋立については関係団体と折衝中であると記述されているが、三吉橋ー備前橋間や市場橋ー北門橋間の埋立が実施されている以上、埋立反対派の関係者も最終的には築地川とその支川が全面的に埋め立てられる運命にあることを何となく想定していたのではないだろうか?もちろん、当時の現地住民の埋立反対の気持ちはリスペクトされるべきであり、埋立に反対する関係団体がいたことも事実なのだろうが、どうもこの「関係団体と折衝中」という記述には行政側の支線1号の計画頓挫に対する弁明的なニュアンスが込められているように感じてしまう。
翌年の昭和57年(1981年)には支線1号の整備が現実的なのか計画調査が行われたようだ。まちづくり事業の一環として「都市計画道路補助線街路153号線同支線1号の整備計画調査 (市場橋〜入船橋先)」が実施された記録が残っている。調査は支線1号だけでなく補助153号線の未建設区間である月島ー晴海間の埋立計画の調査と合わせて約4,172万円の予算をかけて実施された。
調査の具体的な結果を閲覧することはできなかったが、調査が実施された昭和57年以降に、支線1号の整備計画に関する言及が『中央区政年鑑』において全くなくなることを踏まえると、調査結果の内容は何となく想像がつく。このあたりから行政側は支線1号の整備を本格的に諦め始めていたと考えていいかもしれない。支線1の整備調査と同時に計上された月島ー晴海間の埋立計画調査については、その後昭和59年(1983年)ごろから埋め立てが実施され、月島と晴海の間には朝潮大橋が架けられるに至った。行政側は支線1号の整備を諦め始めると同時に、補助153号線の未完成区間の整備にシフトしていったようだ。
計画頓挫後の土地利用とトンネル建設
前節では支線1号(起点は現在の多目的広場付近。終点は采女橋付近)の計画頓挫の背景について検討した。事実上の計画頓挫の始まりは昭和50年(1975年)ごろの都市計画変更と、それに伴う北門橋ー市場橋間の道路建設以外を目的とした埋立・公共施設建設である。補助153号線の延長区間(三吉橋ー入船橋間)における道路建設の未完了が、その先の計画用地の確保・整備失敗に起因するものであるとすれば、北門橋ー市場橋間における支線1号の整備以外を目的とした埋立工事の実施が、補助153号線の延長区間の道路を「作りかけ」にした理由の一つであると言えるだろう。
では事実上の計画頓挫以降、道路の建設用地とされてきた築地川南支川・東支川の水面はどうなったのだろうか?この時点で埋立工事が実施されていないのは備前橋ー市場橋の区間である。昭和58年(1983年)度版〜昭和60年(1985年)度版の『中央区政年鑑』では、埋立が完了していない備前橋ー市場橋間の埋立事業について言及がなされている。昭和58年度版〜昭和60年度版の水面埋立事業に関する記述は下記に引用した通りだ。
(6) 築地川東支川の一部及び南支川(市場橋上流端〜備前橋下流端)
東京都市計画道路補助線街路第153号線支線1の道路建設計画はその後の交通事情の変化に対応するため、昭和51年10月都市計画の変更決定を行い、更に有効な土地利用を図るため、その利用形態を変更し、本区において埋立てしようとするもので、埋立面積は約17,000平方メートルである。
なお、築地川東支川の一部(市場橋~小田原橋間)については、昭和57年11月25日に免許を取得し現在工事中であり昭和58年度中に埋立完了予定である。埋立面積は約5,350㎡である。
また、築地川南支川(小田原橋~備前橋間)については埋立免許に必要な基礎的調査(測量、地質調査、環境影響評価等)を昭和57年度において実施完了し、昭和58年度中に埋立免許を取得し一部工事に着手する予定である。
築地川南支川のうち、築地川分岐点(入船橋交差付近)から備前橋下流端までの埋立ては完了済である。
(6) 築地川東支川の一部及び南支川(市場橋上流端〜備前橋下流端間)
東京都市計画道路補助線街路第153号線支線1の道路建設計画は、その後の交通事情の変化に対応するため、昭和51年10月都市計画の変更決定を行い、さらに有効な土地利用を図るため、その利用形態を変更し、本区において埋立てようとするもので、埋立面積は約17,000平方メートルである。
なお、築地川東支川の一部(市場橋~小田原橋間)については、昭和58年度に埋立てを行い、臨時駐車場として一般に開放している。埋立面積約5,350平方メートルである。
また、築地川南支川(小田原橋〜備前橋間)については、埋立免許に必要な基礎的調査(測量・地質開査・環境影響評価等)を実施完了し、昭和59年度中に埋立免許を取得し、一部工事に着手する予定である。
築地川南支川のうち、築地川分肢点(入船橋交差点附近)から備前橋下流端までの埋立ては既に完了しており、昭和59年5月から一部街路築造に着手し、将来は駐車場及び児童公園として立体的に活用する。
(6) 築地川東支川の一部及び南支川(市場橋上流端〜備前橋下流端間)
東京都市計画道路補助線街路第153号線支線1の道路建設計画は、その後の交通事情の変化に対応するため、昭和51年10月都市計画の変更決定を行い、さらに有効な土地利用を図るため、その利用形態を変更し、本区において埋立てようとするもので、埋立面積は約17,000平方メートルである。
なお、築地川東支川の一部(市場橋~小田原橋間)については、昭和58年度に埋立てを行い、臨時駐車場として一般に開放している。
埋立面積約5,350平方メートルである。
また、築地川南支川(備前橋~小田原橋間)については、昭和59年12月に埋立免許を取得し、昭和60年3月工事に着手した。
築地川南支川のうち、築地川分岐点(入船橋交差点附近)から備前橋下流端までの埋立ては既に完了しており、昭和59年5月から一部街路築造に着手し、将来は駐車場及び児童公園として立体的に活用する。
引用した記述から、計画頓挫後の埋立未完了区間については、まず東支川の市場橋ー小田原橋間が、続いて南支川の備前橋ー小田原橋間が埋め立てられたことがわかる。埋立未完了であった備前橋ー市場橋間の埋立が実施されると同時に、すでに埋立が完了し駐車場として活用されていた入船橋ー備前橋の区間について「一部街路築造に着手し、将来は駐車場及び児童公園として立体的に活用する」と言及がなされている。この時に築造された「街路」こそ、現在の築地川公園下部に建設された未成道トンネルである。引用した記述中の「駐車場」と「児童公園」はそれぞれ現在の「中央区営築地川第三駐車場」と「築地川公園」を指している。駐車場と公園の地下にトンネルを建設するという意味で「立体的に活用」と表現したのだろう。
トンネル建設時の工事看板を撮影した写真が中央区立図書館のwebギャラリーに収蔵されている。権利の関係で画像を直接引用することができないためURLを貼っておくが、画像内の工事看板からはこのトンネル建設工事が「築地川埋立総合整備工事」と呼ばれていたことが窺える。
https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/bookdetail?7&retresult=page%3DDETAIL%26area%3D2%26comp6%3D1%26cond%3D1%26facet0%3D0005198*%26item6%3DAB%26key6%3D%25E7%25AF%2589%25E5%259C%25B0%25E5%25B7%259D%25E3%2580%2580%26mv%3D20%26pcnt%3D2%26sort%3D1%26target1%3D1%26&num=2667210&ctg=1&area=2&areaimage=1
しかしなぜ支線1号の整備計画が現実的でなくなった後になって、トンネルを使った道路建設を始めたのだろうか?筆者の探した限りではトンネル建設の背景について言及がある公的資料にはたどり着くことができなかった。周辺住民の方にも話を伺ったが、そもそもこのトンネル建設が行われた1985年ごろに30代だった住民は2025年現在70代に突入しているわけで、当時のことを覚えている方がそもそも少ないようだった。筆者自身は、トンネル建設の背景には行政側の”保険”的な判断があったのだと考えている。前述してきたように、北門橋ー市場橋間の埋立工事と公共施設建設以降、支線1を采女橋付近まで整備する計画は事実上失敗したわけであるが、行政側には万が一支線1号の整備計画全体やその一部が再び現実的なものとなった場合や、支線1号の整備用地を利用した別の都市計画道路が建設される場合などを想定してこのトンネル建設に踏み切ったのではないだろうか?トンネル建設はそれらの可能性に保険を掛けることができるだけでなく、その上部の土地を別用途で利用することを可能にする。このような背景から、本来の支線1号の整備計画が頓挫した後であるにも関わらずトンネル建設工事が実施されたと筆者は考えている。


トンネル建設とその上部の築地川公園の整備は昭和64年初頭(平成元年・1989年)に完了したようだ。この時点では現在築地魚河岸小田原棟が立地している門跡橋ー小田原橋の区間はまだ埋立工事の実施中であったようだが、平成4年(1992年)撮影の航空写真からは門跡橋ー小田原橋間についても埋立工事は完了し、駐車場が整備されていることがわかる。その後一部の区間では土地の利用方法が変化(門跡橋ー小田原橋間の築地魚河岸建設など)したが、支線1号計画地付近の現在の景色はこのころと大きくは変わっていない。
三本の記事にわたって紹介してきた新富町の未成道に関する紹介・解説は、現在の「作りかけ」の姿が完成したこの時点までにしておく。
まとめと資料案内
【その1:概要・現状紹介編】【その2:未成道・もう一つのトンネルの正体編】【その3:計画頓挫とその後の土地利用編】と三本にわたって新富町に眠る未成道について紹介・解説してきた。トンネル建設と築地川公園の整備が完了した後、この支線1の整備計画用地を首都高晴海線の用地に転用しようという話が持ち上がるのだが(この未成道トンネルが首都高晴海線の未成道だと勘違いされている要因)、これについては近日中に投稿予定の【番外編】を参照いただきたい。
記事中の引用や航空写真の出典についてはその都度提示しているが、引用したものに限らず、この未成道について調査する上で参考になった文献・資料について下記に一覧で示し、この記事を締めることにする。
そして最後に、記事三つを合わせると三万字を超えておりかなり長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださった読者の方、未成道に関する聞き取りや資料探しに協力してくださった東京都都市整備局、第一建設事務所、中央区役所都市整備部、国立公文書館、東京都公文書館、国土交通省図書館、東京法務局の職員の方々、そして「この地下にトンネルがあるのってご存知だったりしますか?」と不審者感満載で声をかけたにも関わらず聞き取りに応じてくださった周辺住民の方々には感謝申し上げます。
図書
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和30年版, 東京都中央区, 昭和30.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和31年版, 東京都中央区, 昭和31.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和32年版, 東京都中央区, 昭和32.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和37年版, 東京都中央区, 昭和37.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和38年版, 東京都中央区, 昭和38.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和39年版, 東京都中央区, 昭和39.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和40年版, 東京都中央区, 昭和40.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和41年版, 東京都中央区, 昭和41.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和42年版, 東京都中央区, 昭和42.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和43年版, 東京都中央区, 昭和43.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和44年版, 東京都中央区, 昭和44.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和45年版, 東京都中央区, 昭和45.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和46年版, 東京都中央区, 昭和46.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和47年版, 東京都中央区, 昭和47.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和48年版, 東京都中央区, 昭和48.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和49年版, 東京都中央区, 昭和49.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和50年版, 東京都中央区, 昭和50.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和51年版, 東京都中央区, 昭和51.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和52年版, 東京都中央区, 昭和52.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和53年版, 東京都中央区, 昭和53.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和54年版, 東京都中央区, 昭和54.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和55年版, 東京都中央区, 昭和55.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和56年版, 東京都中央区, 昭和56.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和57年版, 東京都中央区, 昭和57.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和58年版, 東京都中央区, 昭和58.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和59年版, 東京都中央区, 昭和59.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和60年版, 東京都中央区, 昭和60.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和61年版, 東京都中央区, 昭和61.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和62年版, 東京都中央区, 昭和62.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』昭和63年版, 東京都中央区, 昭和63.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』平成元年版, 東京都中央区, 平成元年.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』平成2年版, 東京都中央区, 平成2年.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』平成3年版, 東京都中央区, 平成3年.
・東京都中央区編『中央区政年鑑』平成4年版, 東京都中央区, 平成4年.
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雑誌掲載の文献
・松枝一夫, 佐々木銀次郎. 「都心部における10mのシールド 地下鉄有楽町線新富1工区」, 日本トンネル技術協会 [編]『トンネルと地下 : 日本トンネル技術協会誌』11(12)(124), 土木工学社, 1980.
・時山誠, 松枝一夫. 「掘り割り内の地下駅施工 地下鉄有楽町線新富町駅」, 日本トンネル技術協会 [編]『トンネルと地下 : 日本トンネル技術協会誌』11(3)(115), 土木工学社, 1980.
・長谷川勲, 川村邦彦. 「佃新橋下部工事鋼製ケーソン ー曳航ならびに沈設までー」『土木施工 : 構想・計画調査設計・施工・維持補修・管理の総合土木技術誌』4(2), オフィス・スペース, 1963.
・「ネットワーク化が一大テーマ。首都・東京の骨格づくり」, 開発行政懇話会 [編]『開発往来』臨時増刊34(393), 開発行政懇話会, 1990.
・中村信義, 中島信. 「地下鉄有楽町線(湾岸線)の延伸計画」, 日本トンネル技術協会 [編]『トンネルと地下 : 日本トンネル技術協会誌』14(5)(153), 土木工学社, 1983.
・安部巖, 平原勲. 「入船橋架け替え工事 ー地下鉄その他工事との競合ー」,『道路 : road engineering & management review』(504), 日本道路協会, 1983.
・東京都道路建設本部. 「佃新橋について」 , 『道路 : road engineering & management review』(12)(274), 日本道路協会, 1963.
・東京都道路建設本部建設部橋梁課. 「佃新橋の計画について」, 『道路 : road engineering & management review』(256), 日本道路協会, 1962.
・時山誠, 松枝一夫. 「橋脚のアンダーピニング (営団地下鉄8号線新富一工区で施工した三吉橋の防護工事」,『土と基礎』27(11),土質工学会.
・「不動産日誌」『不動産研究』4(1), 日本不動産研究所, 1961.
航空写真
・陸軍撮影の空中写真(1936年6月11日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=689621.
・陸軍撮影の空中写真(1944年10月16日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=1712797.
・米軍撮影の空中写真(1948年3月29日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=193679.
・米軍撮影の空中写真(1956年3月6日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=166149.
・国土地理院撮影の空中写真(1963年6月26日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=430704.
・国土地理院撮影の空中写真(1966年6月29日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=446467.
・国土地理院撮影の空中写真(1971年4月25日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=1665622.
・国土地理院撮影の空中写真(1975年1月20日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=998679.
・国土地理院撮影の空中写真(1979年11月6日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=1611718.
・国土地理院撮影の空中写真(1984年10月31日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=1946203.
・[公共施設地図株式会社 編], 航空住宅地図 : 全国統一・地形図式・航空写真 ’87 文京区, 公共施設地図, 1987.2.
・国土地理院撮影の空中写真(1988年2月22日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=373455.
・国土地理院撮影の空中写真(1989年10月20日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=1045391.
・国土地理院撮影の空中写真(1992年10月10日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=703931.
・国土地理院撮影の空中写真(1997年6月30日撮影・国土地理院 電子国土web収蔵), https://mapps.gsi.go.jp/map-lib-api/apiContentsView.do?specificationId=760851.
告示
・昭和35年1月12日火曜日 建設省告示 第29号
・昭和41年6月1日火曜日 建設省告示 第1712号
・昭和44年3月31日月曜日 建設省告示 第1108号
・昭和49年3月23日土曜日 建設省告示 第396号
・昭和50年3月19日水曜日 建設省告示 第400号
・昭和53年3月31日金曜日 建設省告示 第638号
・昭和54年3月24日土曜日 建設省告示 第558号
・昭和59年3月7日水曜日 建設省告示 第449号
・平成元年3月4日土曜日 建設省告示 第492号
・平成5年7月19日月曜日 東京都告示 第805号
都市計画関連資料
・昭和35年1月12日火曜日 建設省告示 第29号に伴い作成された都市計画図
・平成5年7月19日月曜日 東京都告示 第805号に伴い作成された都市計画図
・都市計画情報等インターネット提供サービスで閲覧可能な都市計画図 (https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)
未成道の整備計画地が映り込んでいる映像作品
・1989年6月11日放送「機動刑事ジバン エピソード20:町にお金が降って来た!」
・1993年3月5日放送「五星戦隊ダイレンジャー エピソード3:魂ちょうだい!」
・1994年2月18日放送「忍者戦隊カクレンジャー 第1話:忍者でござる」
・1995年3月31日放送「超力戦隊オーレンジャー 第5話:激愛!! 炎の兄弟」
・1995年6月25日放送「重甲ビーファイたー エピソード21:極悪昆虫タッグ」
請求した不動産登記情報 (地番)
・築地1丁目 1309番12
・築地1丁目 1011
・築地7丁目 20番3
・築地6丁目 2612番16
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