【ヒカリエデッキ】世界一早く渋谷の新名所を渡ってきたの巻。

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地形マウント。

再開発の渦中にある渋谷に、また一つ新名所が登場した。2021年7月15日、今となっては渋谷のシンボル的施設の一つである渋谷ヒカリエに「ヒカリエデッキ」がオープンした。このヒカリエデッキには渋谷ヒカリエの3、4階部分からアクセスが可能。ヒカリエデッキを経由することで地上に降りることなく渋谷駅から宮益坂方面に移動することができるようになる。渋谷駅が渋谷の谷構造の最深部に位置している故、青山方面、表参道方面への移動には坂を避けることはできなく、長年の間、苦労を要するものだった。

宮益坂下交差点から見上げる宮益坂。

位置関係。

このヒカリエデッキは、宮益坂と国道246号線のちょうど間に挟まれるような形でオープンした。ヒカリエデッキを歩くと、”地下鉄”と名乗っているくせに、地下を通っていないでお馴染みの銀座線の真上を歩くという不思議な体験をすることができる。

ヒカリエデッキは銀座線の真上を通っている。
銀座線が真下を走っている。

この写真は宮益坂から撮影したものだが、銀座線の真上にヒカリエデッキが位置していることがよくわかる一枚だ。

オープンの瞬間。

7月15日のオープンに合わせて、ヒカリエデッキでは関係者の方々によるテープカット式が行われていた。式典には報道陣の姿も多く見られた。多くの人が渋谷の代わり様に注目を集めているのだろう。MCの方の合図で一斉にテープがカットされる。喜ばしい瞬間に立ち会うことができた。

テープカット式の様子。

早速、オープンしたヒカリエデッキに向かおうと試みる。すると、一般人の立ち入りは一時的に宮益坂方面の入り口からに限られているとの案内。式典の参加者と密になってしまうからであろう。テープカット式が行われたヒカリエ側から一度、宮益坂を自力で登らねばならなくなった。
目の前には、その骨折りを撤廃するために作られた施設が今ちょうどオープンした訳だが、止むを得ない。「世界で一番最初に銀座線の真上を歩いた男になるつもりだ」と期末試験の英作文で書いてしまったこともあるわけで、小走りで坂を登る決意を固めた。

汗だくの末得た肩書き。

なんとか、宮益坂を登り終え、ヒカリエデッキの本来の使用用途からすると”出口”に当たる青山側、表参道側の出入り口にたどり着いた。汗だくになりつつも「世界で一番最初に銀座線の真上を歩いた男」という肩書きを得ることができた。東急関連の会社にエントリーするとしたら何かプラスに働くだろうか?

個人的に、ヒカリエデッキは通路的な要素が大きいのかと勝手な認識をしていたが、驚いたことに入ってすぐにキッチンカーが目に入ってきた。お洒落路線も守備範囲ということなのだろうか。キラキラ陽キャ達で賑わう宮下公園がすぐ近くにある訳だが、ヒカリエデッキにも宮下公園に似た雰囲気を感じる瞬間が多々あった。

無論、あくまで”デッキ”なので積極的に本来の目的外の利用方法を試みることは奨励されないが、腰掛けて一休みできるようなスペースも用意されている。将来的には、ふらっと立ち寄ることのできる空間になるのではないだろうか。

キッチンカーが停まっている。

足を進めてヒカリエ方面(宮益坂の下側)に進んでみると不思議な光景が広がっていた。今、自分は宮益坂を降っているにも関わらず、目の前には上りのエスカレータが現れる。

デッキ途中からもヒカリエ内にアクセスできる。
ヒカリエ4階に相当する高さに上がる。

ヒカリエの建物自体を斜めに傾むかせることはできないわけで、デッキの途中にて地上からの高さを調節しなければならないのだ。「一見、人間が世の全てをコントロールできているように見えるかもしれないが、地形という自然が作り上げたものには叶わない」いつか読んだ誰かの伝記に、こんな感じのことが書いてあったことを思い出した。

再認識する都会感。

そんな地形に逆らう不思議な体験に気を取られていたが、ふと上を見上げると自分が大都会の一角にいることを思い出した。周りは高層ビルに囲まれている。

スキマ的空間にいる感じがする。

左右をビルに挟まれている故に、南側に面しているヒカリエへの出入りはもちろんのこと、宮益坂側にあたる北側に面した建物内にもヒカリエデッキ側からアクセスが可能だ。ヒカリエデッキの登場で移動時の利便性はさらに高まったと言えそうだ。

宮益坂とヒカリエデッキの間に建つビルへのアクセスもOK。
宮益坂の途中からも立ち入ることができる。

まだまだ中間地点。

渋谷ヒカリエは2012年3月にオープンを果たした。そもそも、この渋谷再開発ブームの所以は2005年ごろに渋谷が特定都市再生緊急整備地域に選定されたことにある。過去にこのヒカリエデッキの担う役割を想像できた人はいたのだろうか。渋谷ヒカリエの完成前、2009年ごろの宮益坂付近の様子を振り返ってみたい。

1枚目が2009年の様子。2枚目が2021年現在の様子。

激しい変わりように感心する。2021年現在の写真の中に見える二つのビルは左手から、渋谷ヒカリエと渋谷スクランブルスクエア。そして真横に走っているのが銀座線。10年ちょっとで随分近未来的な街並みに変化した。

2009年頃は、2021年現在のように銀座線は空中にホームがあった訳ではなかった。当時の線路はもう少し奥まで伸びていた。(西側に伸びていた。)今はなき東急東横店の中にホームは存在した。デパートの中に電車のホームがあるというのは、その当時から大変珍しい構造だったそう。その頃から井の頭線ユーザーであった筆者にとっては、銀座線乗り換えが面倒になった訳だが、ホームが移設されたことはまだ記憶に新しい。

将来像。

実は、このヒカリエデッキのオープンは再開発に伴う”移動の変化”の序章に過ぎない。ヒカリエデッキの登場で表参道方面への移動の利便性は格段に向上した。谷構造の最深部に位置する駅部分と谷の片側の頂上部が結ばれたことになった。将来的には、もう片方の谷の頂上部、即ち、道玄坂方面、神泉方面とも結ばれる計画になっている。

加えて、この二つの施設自体も連結される計画だそう。再開発の節目年とされている2027年には道玄坂から宮益坂まで、坂を降る、あるいは登ることなく移動できるようになる。

ついに人間は渋谷の谷構造が生み出してきた、移動の面倒臭さとの付き合いに終止符を打つことになる。かといって、今まで向き合い続けてきた面倒臭さとの間に築いてきた絆が失われることはない。ちょうど熟年離婚した夫婦が、離婚後も相手との長期にわたる共同生活の故に生活習慣を変えられないのと同じ様に。谷構造のお陰で地下には大きな地下街が広がり、新宿とは対照的に、異なる運営会社でも駅はほぼ同じ地点に集まっている。

おわりに。

恐らく前述のような渋谷における体系(地下も含んでいるので”街並み”という単語だとピンとこない)は谷構造が消滅しない限りいつまでも続くだろうし、1885年の渋谷駅開業以来から作り上げてきたスタイルだってそう簡単には様変わりしないように思える。 

再開発後の文化を作るにあたって我々が一役からねばと思うと多少気が引き締まるが、そもそもこういうものは無意識のうちに発達するものである気がするし、ティーンの街・渋谷にとってはもはや必要とされていないのかもしれない。

ところで、渋谷ヒカリエの”ヒカリエ”は文字通り「光りへ」が由来らしい。再開発が終わるとされる2027年には、新型なんたらなんてのがなかった頃のようなキラキラ”光って”いた世界線にたどり着くといいのだが。

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