『幻の第二山手線計画』〜明大前に残るその痕跡を訪れてみる〜

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幻の第二山手線。

東京の主要な路線の一つである山手線。首都圏の路線の中でもその重要性は高い。山手線に乗れば都内の主要な街まで運んでくれる。環状線での運行は特徴的だ。ちなみに、都内を走る私鉄の終点駅の片方は必ず山手線の駅になっている。1925年に運行が始まった山手線の利便性に当時の人々は驚き、現在の山手線の外側に、「第二山手線」を建設しようとした計画があったことをご存知だろうか。結論を言ってしまうと、世界恐慌、戦争、資金不足などを理由に、第二の環状線形の路線が東京を走ることはなかった。実現こそされなかったが、その計画が存在していた確かな痕跡を現在でも垣間見ることができる。

世田谷の学生街「明大前」に潜むその痕跡。

そんな幻の第二山手線計画の存在を確かめられるのは明大前。その名の通り、明治大学が駅から大通り(甲州街道)を挟んで位置している。駅の北側には学生街が広がり、ラーメン屋などの飲食店も多い印象だ。明大前駅には京王線、井の頭線が乗り入れている。そんな明大前駅から徒歩3分程度の場所に計画の痕跡は残されている。井の頭線を明大前駅から永福町駅方面に線路に沿って進むと、大通りと井の頭線が立体交差している。その立体交差を越え、進行方向逆側を振り返ってみていただきたい。そこに確固たる計画の証拠が残されている。

使われていない二本分の線路のスペースが残された立体交差の出口。

ご覧の通り、写真左側に使われていないが二本分の線路のスペースが用意されている。この使われていないスペースを第二山手線が使用するはずであった。

写真右側に敷かれているのが井の頭線の線路だ。井の頭線の線路のうち、写真右手が永福町、西永福、吉祥寺方面。左手が明大前、下北沢、渋谷方面。

立体交差の上側。

立体交差の上側には大通り(甲州街道)だけでなく、玉川上水が流れ、首都高速道路が走っている。

立体交差の上側を走る甲州街道。さらにその上には首都高速道路が走っている。
立体交差の上側を流れる玉川上水。
玉川上水。かなり年季が入っているようだ。

第二山手線計画中止の理由。

第二山手線の建設計画を立ち上げたのは「東京山手急行電鉄」であった。しかしながら、当時の日本は昭和金融恐慌に見舞われており、東京山手急行電鉄に建設の資金はなかった。そこで東京山手急行電鉄は小田原急行鉄道の傘下に入ることとなる。それとほぼ同年代に現在の「渋谷 – 吉祥寺」を結ぶ井の頭線の計画が立ち上がっていた。井の頭線は現実の路線となったが、計画当初は東京山手急行電鉄と同じように資金不足から小田原急行電鉄の傘下に入っていた。

その後、小田原急行電鉄は東京山手急行電鉄と井の頭線の計画会社を合併。当時、小田原線を開業させて間もなかった小田原急行電鉄は資金繰りに困り、費用の安くすみそうだった井の頭線の計画を優先させる。第二山手線の計画も諦めた訳ではなかったが、日中戦争、経済状況の悪化を理由に東京山手急行電鉄の計画する第二山手線の建設は諦めざるを得ない状況となってしまった。

第二山手線の計画ルート。

井の頭線との合併前の第二山手線の計画ルートは下記の通りだ。

井の頭線との合併前の計画ルート。

東京を大きく回るようなルートで、約50kmの路線になる計画だった。路線のうち西側の大半部分を掘割と呼ばれる構造での建設を想定していた。掘割とは土地を切土し、それを繰り返すことで地上よりも一段階低くしてそこに電車を通す技術である。東京山手急行電鉄では掘割することで発生する土を利用して、路線沿線の湿地を埋め立て、住宅街として整備し分譲する計画があった。その証拠に「東京山手急行証券」という子会社が設立された記録も残っている。

井の頭線と東京山手急行電鉄の合併後、ルートは一部が修正されることになる。今回訪れさせていただいた明大前の跡地は合併後の修正されたルートによるものの一部である。「下北沢 – 代田橋」と通過する予定であった当初の計画から、少々西側に路線をずらして明大前を通ることになった。明大前にて合併した井の頭線との相互乗り換えを可能とする計画になった。

戦後には井の頭線は京王帝都電鉄として営業が再開されることになる。

さらに外側…? 「第三」山手線計画の存在。

さらに、東京山手急行電鉄のもう一段階外側に同じように環状線の鉄道を敷く計画も存在していたという記録も残っている。

「鶴見 – 等々力 – 経堂 – 桜上水 – 西永福 – 荻窪 – 練馬 – 東武練馬 – 川口 – 竹ノ塚 – 金町」を結ぶ計画だったそうだ。どちらも実現されなかった計画ではあるが、架空の第二山手線と第三山手線を並べてみた。内側が第二山手線。外側が第三山手線である。

第三山手線計画と第二山手線計画。

おわりに。

2021年現在、人々が第二山手線に揺られる機会は訪れなかった。しかしながら、当時の人々の思いは形を変えて残っているのかもしれない。第二山手線計画同様に環状線での運行を目指す「エイトライナー」や「メトロセブン」といった計画が現在も存在することは事実だ。実際に、第二山手線の一部と似たルートの大井町線や世田谷線は建設された。一部ではあるが、計画は実現されたのかもしれない。

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